ひょんなことから高校時代の友人と会うことになった。
友人といっても、当時は密な付き合いをしていたわけではなく、「ともだちのともだち」的なかんじの友人だったというのが正しいと思う。
その前に彼女たちと会ったのは学年同窓会をした7年ほど前。
実はその同窓会へは行こうか、行くまいか、かなり悩んだ。
わたしは中高校生の頃、人間関係でとても悩むことが多かったので、なんだかその頃の気持ちに引き戻されるかもしれないという気持ちがあったから。
もちろん、行けば行ったで楽しく過ごせてそんなことは杞憂に終わったのだけれど。
中学の頃は何度もいじめにあって、人格を否定されて本当に辛かった。
ようやくそこから解放されて、自分で選んで入学した高校なのに、気の合う友人ができなくてさびしかった。
女子高生って特有で、特定の友人と四六時中べったり過ごしたいもの。あからさまに嫌われているわけじゃなさそうなのに、どこのグループからも見向きもされない自分が、消えてなくなりたいくらいイヤだった。
唯一、部活は楽しかったから、そこに救いを求めてた。だから、部活でわたしと仲良くしてくれていた友人は、いつもわたしの面倒をみなくちゃいけなくてウザかっただろうなーと、今振り返って思う。
彼女は辛抱強くわたしの面倒をみてくれた。さすがにその彼女もそんなわたしのおもりに辟易したのか、距離を置かれて、また傷ついた。
わたしは一匹狼でもいいわと言える強さがあればよかったけど、そんなホネのあるタイプではなく、うじうじして自信はないし、、見た目がイケてるわけでもない、地味ーでつまんない女の子。
・・・・と、ずっと思ってた。
ところが?
再会した友人のひとりは、さもわたしが快活だったかのようなことを言うので、わたしは内心驚いていた。
あれれ?
わたしってそんなイメージだったの?
もちろん、彼女と同じクラスになったことはないので、わたしに対する評判?評価?についてよく知らなかったということも大いにあると思う。
でも、自分が抱いている自分のイメージって、実はけっこう自分で勝手に捻じ曲げちゃってるのかもしれないと気づいた。
わたし、明るかったんだー、高校生活、けっこう楽しかったんだー
って、思い返してみたら、現在のわたしも変わるのかもね。
なんか呪いが解けたみたいに、ちょっとだけ心が軽くなった気がする。
2013-12-24
2013-12-22
Focus
他人の優れた部分にすぐ気付いて、それを認める、賞賛できるというのは、わたしの優れた部分だ。
いつも、優れているからいいな、うらやましいな、というところにしか、フォーカスしていなかった。
自分が持っていることに目を向けてみて初めて気付けた。
自分がすでに持っているもの
どんどんフォーカスしていこう。
いつも、優れているからいいな、うらやましいな、というところにしか、フォーカスしていなかった。
自分が持っていることに目を向けてみて初めて気付けた。
自分がすでに持っているもの
どんどんフォーカスしていこう。
2013-12-16
わたしを阻むブロック
知らないうちに自分でかけているココロのブレーキ=「心のブロック」を取り除く、という体験をしました。
自分でもわかりすぎるほどわかっている心のブロック。
わかっているのに打破できないブロック。
その方には、そのブロックのイメージがとても面白いカタチで現われるのだそうです。
そしてそのブロックを解除するために、ブロックとして現れたイメージを書き換えてくれます。
わたしのブロックは
「マスクメロン」
マスクメロンって、皮に網目模様がありますよね。
わたしはこの網目模様がとてもイヤなんだそうです。許せないんだそうです。
わたしはこんなじゃない!
それが受け入れられないんだそうです。
では、そのブロックを解除するイメージは・・・???
「つるっとしたスイカみたいな表面のメロン」
←プリンスメロンみたいなかんじ?
で、マスクメロンをプリンスメロンのイメージに書きかえてもらったら・・・、
中からとてもキレイな光が現われてきたそうです。
解除してくれた方いわく、
パワーのある人は、自分にフタをしてしまいがちなのだそうです。
フタをしてしまう人は自分の力を知っている人。
つまり、そのフタを開けてしまうと、すごいパワーがあふれちゃうから。
マスクメロンの網目模様が許せない・・・
うわー!!!!!!!!
そうそう、まさしくそうなんです!!!!!
一点の曇りもない自分でありたいのに、汚点だらけの自分が許せない。
それがそんなイメージになるんだ。・・・っていうか、わかりやすすぎる!その表現。
すごく納得しました。
そしてうれしかったのは、ほんとは輝くような存在(かもしれない)自分、あふれるパワーを持っている(かもしれない)自分、が内側にいるんだ!ってこと。
その後、過去世も見てもらいました。心のブロックというのは、過去世からの思いグセみたいなものが起因していたりするそうなので、その過去世をちょっとだけ書き換えてくれます。
彼女から語られたのは・・・
わたしはお姫様みたいな人で、あるとき、池に何か大事なモノを落としてしまったのだけれど、それを拾わなかったことをとても後悔している。拾わなかった自分を許せないでいる。
それが思いグセみたいになっているらしい。
そこでちょっとだけその過去の行動を書きかえてもらいました。
池に入って落としたモノをちゃんと拾いました。
・・・拾ってみたら、なんということもなかった。
大きな劇的な変化があるわけではないけれど、2週間くらいすると ブロック解除の効果が出てくるらしいです。
自分の気づきや気持ちの変化かもしれないし、外側から何か変化がやってくることもあるらしい。
そのためには、注意深く毎日を過ごしていないと!
そして最後にこんなメッセージがきてます。と話してくださったのは、
そろそろ人の上に立つ時期に来ている
・・・ということ。
そういう意味では、会社員を辞めることになるかも、ということでした。
なんかワクワクする!!!
とってもワクワクする!!!
新しいことにチャレンジしてみようと話を進めていたら、こんな流れがやってきて、後押しされているように感じました。
一晩明けて、またこのブロック解除のことを考えていたら、こんなイメージが頭に浮かびました。
「イグアナの娘」
萩尾望都さんの有名なマンガです。
ある特徴的なシーンが、これまでの自分なのかもなと思ったのです。
主人公のリカは、ほかの人からは普通に人間(しかもキレイ)なのに、自分の姿を鏡で見ると「イグアナ」に見えてしまう。
わたしは鏡でみた自分を勝手に「イグアナ」と思ってる。←マスクメロンの網目模様ねー。
まわりの誰が見ても人間に見えるのに、鏡で自分を見ると「イグアナ」に見える。
そのお話の背景には実は複雑な理由があるんだけど、自分だけ自分が「イグアナ」に見えるっていう部分が自分に重なったのです。
これって、ブロック解除効果の始まり・・・かも。今までそんなイメージ、湧いてこなかったもの。
その夜。
ドルフィンカードを引いてみました。
「Vision」
というカードを引きました。
あなたの中にすでにあるビジョンや目標を実行しなさい。
ビジョンを捜す時です。
ビジョンはもう、象徴的、幻想的な形で現れてきています。
ビジョンは未来で予言的、予測的な出来事でしょう。
あなたは目標、目的を決め、描いた未来のビジョンを視覚化していくでしょう。
・・・といったメッセージと受け取りました。
ここのところ、目に留まるメッセージとコワイくらい、つながってる。
ワクワクしてたまらない!
自分でもわかりすぎるほどわかっている心のブロック。
わかっているのに打破できないブロック。
その方には、そのブロックのイメージがとても面白いカタチで現われるのだそうです。
そしてそのブロックを解除するために、ブロックとして現れたイメージを書き換えてくれます。
わたしのブロックは
「マスクメロン」
マスクメロンって、皮に網目模様がありますよね。
わたしはこの網目模様がとてもイヤなんだそうです。許せないんだそうです。
わたしはこんなじゃない!
それが受け入れられないんだそうです。
では、そのブロックを解除するイメージは・・・???
「つるっとしたスイカみたいな表面のメロン」
←プリンスメロンみたいなかんじ?
で、マスクメロンをプリンスメロンのイメージに書きかえてもらったら・・・、
中からとてもキレイな光が現われてきたそうです。
解除してくれた方いわく、
パワーのある人は、自分にフタをしてしまいがちなのだそうです。
フタをしてしまう人は自分の力を知っている人。
つまり、そのフタを開けてしまうと、すごいパワーがあふれちゃうから。
マスクメロンの網目模様が許せない・・・
うわー!!!!!!!!
そうそう、まさしくそうなんです!!!!!
一点の曇りもない自分でありたいのに、汚点だらけの自分が許せない。
それがそんなイメージになるんだ。・・・っていうか、わかりやすすぎる!その表現。
すごく納得しました。
そしてうれしかったのは、ほんとは輝くような存在(かもしれない)自分、あふれるパワーを持っている(かもしれない)自分、が内側にいるんだ!ってこと。
その後、過去世も見てもらいました。心のブロックというのは、過去世からの思いグセみたいなものが起因していたりするそうなので、その過去世をちょっとだけ書き換えてくれます。
彼女から語られたのは・・・
わたしはお姫様みたいな人で、あるとき、池に何か大事なモノを落としてしまったのだけれど、それを拾わなかったことをとても後悔している。拾わなかった自分を許せないでいる。
それが思いグセみたいになっているらしい。
そこでちょっとだけその過去の行動を書きかえてもらいました。
池に入って落としたモノをちゃんと拾いました。
・・・拾ってみたら、なんということもなかった。
大きな劇的な変化があるわけではないけれど、2週間くらいすると ブロック解除の効果が出てくるらしいです。
自分の気づきや気持ちの変化かもしれないし、外側から何か変化がやってくることもあるらしい。
そのためには、注意深く毎日を過ごしていないと!
そして最後にこんなメッセージがきてます。と話してくださったのは、
そろそろ人の上に立つ時期に来ている
・・・ということ。
そういう意味では、会社員を辞めることになるかも、ということでした。
なんかワクワクする!!!
とってもワクワクする!!!
新しいことにチャレンジしてみようと話を進めていたら、こんな流れがやってきて、後押しされているように感じました。
一晩明けて、またこのブロック解除のことを考えていたら、こんなイメージが頭に浮かびました。
「イグアナの娘」
萩尾望都さんの有名なマンガです。
ある特徴的なシーンが、これまでの自分なのかもなと思ったのです。
主人公のリカは、ほかの人からは普通に人間(しかもキレイ)なのに、自分の姿を鏡で見ると「イグアナ」に見えてしまう。
わたしは鏡でみた自分を勝手に「イグアナ」と思ってる。←マスクメロンの網目模様ねー。
まわりの誰が見ても人間に見えるのに、鏡で自分を見ると「イグアナ」に見える。
そのお話の背景には実は複雑な理由があるんだけど、自分だけ自分が「イグアナ」に見えるっていう部分が自分に重なったのです。
これって、ブロック解除効果の始まり・・・かも。今までそんなイメージ、湧いてこなかったもの。
その夜。
ドルフィンカードを引いてみました。
「Vision」
というカードを引きました。
あなたの中にすでにあるビジョンや目標を実行しなさい。
ビジョンを捜す時です。
ビジョンはもう、象徴的、幻想的な形で現れてきています。
ビジョンは未来で予言的、予測的な出来事でしょう。
あなたは目標、目的を決め、描いた未来のビジョンを視覚化していくでしょう。
・・・といったメッセージと受け取りました。
ここのところ、目に留まるメッセージとコワイくらい、つながってる。
ワクワクしてたまらない!
2013-12-12
持っていることに目を向ける
持っていないことではなく、持っていることに目を向ける、感謝する。
じんわりと目を向けてみようか、という気になりました。
自信がなくて、そんな自分がイヤで、輝いている人がうらやましくて、たまらなかった。
"ダメダメなわたし"って、いつも自分にダメ出しをしているけど、周囲の人たちの中にはとても好意的に見守ってくれている人がいて、こんなわたしでも憧れてくれていたり、人の前に立つべきだと背中を押してくれるひとがいる。
それを知って、うれしくて涙が出そうになりました。
わたしが持っているもの、これに目を向けて感謝して行こう。
そんな時って、ちゃーんと目にするものなんです。こんなメッセージ。
http://beach-press.go-naminori.com/erinishikami/?p=5425
あー、その通り。
まさにわたしのために書かれたブログじゃないの?とびっくり!
じんわりと目を向けてみようか、という気になりました。
自信がなくて、そんな自分がイヤで、輝いている人がうらやましくて、たまらなかった。
"ダメダメなわたし"って、いつも自分にダメ出しをしているけど、周囲の人たちの中にはとても好意的に見守ってくれている人がいて、こんなわたしでも憧れてくれていたり、人の前に立つべきだと背中を押してくれるひとがいる。
それを知って、うれしくて涙が出そうになりました。
わたしが持っているもの、これに目を向けて感謝して行こう。
そんな時って、ちゃーんと目にするものなんです。こんなメッセージ。
http://beach-press.go-naminori.com/erinishikami/?p=5425
あー、その通り。
まさにわたしのために書かれたブログじゃないの?とびっくり!
2013-11-11
描いた未来予想図はその通りになる!
昨日受けたヨガのWSで先生が言っていたこと。
正しいヨガのポーズを知らなければ、
イメージできなければ、
その形になりません。
頭に描けなければ、形になりません。
これはヨガのアライメントの話なんですけど・・・。
でも、ヨガのポーズに限らず、
頭の中で描いた未来予想図は
その通りになります!
いや、ほんとなんだって。絶対、その通りになるんだよ。
と笑いながら先生は繰り返していました。
うんうん、やっぱり、そうだよね!
頭に描けばその通りになるんだーー!!!
とココロの中で激しく同意してました(*^^)v
だから、楽しいこと、やりたいこと、いっぱいイメージしておかないとね。
わたしのまわりでは、夢を実現させて、どんどん進化させている人がいっぱいいて。
もちろん、そのための努力は惜しまないし、たぶん、寝る間も惜しんで取り組んでると思う。
わたしも自分が心から楽しいと思える毎日を過ごすために、心地よく生きていくために、すてきな未来予想図をいくつも頭に描きます!!!
正しいヨガのポーズを知らなければ、
イメージできなければ、
その形になりません。
頭に描けなければ、形になりません。
これはヨガのアライメントの話なんですけど・・・。
でも、ヨガのポーズに限らず、
頭の中で描いた未来予想図は
その通りになります!
いや、ほんとなんだって。絶対、その通りになるんだよ。
と笑いながら先生は繰り返していました。
うんうん、やっぱり、そうだよね!
頭に描けばその通りになるんだーー!!!
とココロの中で激しく同意してました(*^^)v
だから、楽しいこと、やりたいこと、いっぱいイメージしておかないとね。
わたしのまわりでは、夢を実現させて、どんどん進化させている人がいっぱいいて。
もちろん、そのための努力は惜しまないし、たぶん、寝る間も惜しんで取り組んでると思う。
わたしも自分が心から楽しいと思える毎日を過ごすために、心地よく生きていくために、すてきな未来予想図をいくつも頭に描きます!!!
2013-11-08
手放す時はもがかない
ケン先生のTTを受講した時、ノートに書き留めた言葉。
手放す
これがキモ。
でもすごく納得する。
どうしよう、どうしたらいいんだろう?ともがけばもがくほど、負のスパイラルに飲み込まれていくものです。
手放す
これがキモ。
ヨガの練習はそれが顕著にわかります。
苦手だったりできないポーズを何とか必死にやろうとするのはとても苦しい。
でも、ふうーと力を抜いて、ちょっとやり方を変えてみると思った以上に簡単にできたりして。
苦手だったりできないポーズを何とか必死にやろうとするのはとても苦しい。
でも、ふうーと力を抜いて、ちょっとやり方を変えてみると思った以上に簡単にできたりして。
もちろん、すぐできることばかりではなくて、長い時間をかけてある日突然、到達することもあります。
だからヨガの練習をしていると、知らないうちにそんなことが体に沁みこんでいて、手放すのがうまくなっていくように思います。無駄なエネルギーも使わなくなっているかも。
仕事上のことで悩んでいる後輩に、あれこれ小手先のアドバイスをしてしまったけれど、結局のところ、ここがキモなんだろうなあ。
仕事上のことで悩んでいる後輩に、あれこれ小手先のアドバイスをしてしまったけれど、結局のところ、ここがキモなんだろうなあ。
わたしも彼女と同じ年の頃はまだまだ人生経験も足りなくて、考えも甘くて、つまらないことでいちいち悩んでいました。
彼女もいつか気付くかもしれないけど、もしかしたら気付かないままかもしれない。
そう思うと、さまざまな出会いや、ヨガの練習をしていることで日々成長している自分に気付くことができて本当に幸せだと感じます。
彼女もいつか気付くかもしれないけど、もしかしたら気付かないままかもしれない。
そう思うと、さまざまな出会いや、ヨガの練習をしていることで日々成長している自分に気付くことができて本当に幸せだと感じます。
2013-11-07
「いわれのない自信」について考えてみた
ナイナイアンサーで心屋仁之助さんが言ってた言葉。
小さい頃から認められてこなかった人は、"自分は認められない人だから頑張らないと認めてもらえない"というスパイラルに入ってしまう。
子供の頃から褒められまくった人は、"いわれのない自信"がある。
おおお!そうなのか!そうだったのか!と思いました。
「え?アナタのどこからそんな自信が???勘違いも甚だしくない?」
っていう人を何人も知っています。
第三者から見てどんなにイケてなくたって、おバカさんだって、本人には揺るぎない自信があるひと。
いやいや、あなたよりわたしの方がまだマシだと思うけど???といくつか自分の勝っている点を頭の中に挙げてみるものの、悲しいかな、わたしにはどうやってもやっぱり彼らのような自信は持てないのです。
それはやっぱり、あまり褒められてこなかったからなのかー。
認めてもらえることが少なかったからなのかー。
もともと前に出ていくタイプじゃなくて、引っ込み思案な性格の上に、
"能ある鷹は爪を隠す"ものだと言われ、
"謙虚は美徳"
みたいな考えの両親のもとで育ったので、自分の中で"他の人より優れていること"に目を向けることもなかったし、今でいう"自分の長所や強み"を人に悟られるのは下品だとも思っていました。
加えて、不幸にも小学校1年生の時から極端に視力が悪くなり、小学校3年生でメガネなしの生活ができなくなりました。当時の小学生でメガネをかけているこどもなんてほとんどいません。
メガネをかけているだけでひどいことを言われたりもするし、小学生といえども女子としては見てもらえないわけです。しかも歯科矯正をしていたので、見た目的にはアグリーとしか言えなかったと思います。
それまで写真をたくさん撮ってくれた父も、そのくらいの時期からあまり写真を撮ってくれなくなりました。コドモ心に切なかった。写真を撮ってもわたしが可愛く写らないから写真を撮りたくないのだと思いました。
成績は良かったけど、それだけに、そんな容姿じゃ"マジメが服着て歩いてる"くらいにしか思われないのもイヤでした。だからどんどん自分が嫌いになった。
わたしにとってコドモ時代は暗黒の時代なのです。
そんなわたしでも、勘違いするほど褒められて育てられていたら、もしかしたらゆるぎない自信もついたのかもしれません。でも当時の両親だって精一杯やっていたはずだということは、もういいオトナのわたしにはわかります。
だからあとは自力で
☆なりたい自分
☆目指す自分
に近づくように努力して、じぶんを誇らしく思えるようになりたいのです。
小さい頃から認められてこなかった人は、"自分は認められない人だから頑張らないと認めてもらえない"というスパイラルに入ってしまう。
子供の頃から褒められまくった人は、"いわれのない自信"がある。
おおお!そうなのか!そうだったのか!と思いました。
「え?アナタのどこからそんな自信が???勘違いも甚だしくない?」
っていう人を何人も知っています。
第三者から見てどんなにイケてなくたって、おバカさんだって、本人には揺るぎない自信があるひと。
いやいや、あなたよりわたしの方がまだマシだと思うけど???といくつか自分の勝っている点を頭の中に挙げてみるものの、悲しいかな、わたしにはどうやってもやっぱり彼らのような自信は持てないのです。
それはやっぱり、あまり褒められてこなかったからなのかー。
認めてもらえることが少なかったからなのかー。
もともと前に出ていくタイプじゃなくて、引っ込み思案な性格の上に、
"能ある鷹は爪を隠す"ものだと言われ、
"謙虚は美徳"
みたいな考えの両親のもとで育ったので、自分の中で"他の人より優れていること"に目を向けることもなかったし、今でいう"自分の長所や強み"を人に悟られるのは下品だとも思っていました。
加えて、不幸にも小学校1年生の時から極端に視力が悪くなり、小学校3年生でメガネなしの生活ができなくなりました。当時の小学生でメガネをかけているこどもなんてほとんどいません。
メガネをかけているだけでひどいことを言われたりもするし、小学生といえども女子としては見てもらえないわけです。しかも歯科矯正をしていたので、見た目的にはアグリーとしか言えなかったと思います。
それまで写真をたくさん撮ってくれた父も、そのくらいの時期からあまり写真を撮ってくれなくなりました。コドモ心に切なかった。写真を撮ってもわたしが可愛く写らないから写真を撮りたくないのだと思いました。
成績は良かったけど、それだけに、そんな容姿じゃ"マジメが服着て歩いてる"くらいにしか思われないのもイヤでした。だからどんどん自分が嫌いになった。
わたしにとってコドモ時代は暗黒の時代なのです。
そんなわたしでも、勘違いするほど褒められて育てられていたら、もしかしたらゆるぎない自信もついたのかもしれません。でも当時の両親だって精一杯やっていたはずだということは、もういいオトナのわたしにはわかります。
だからあとは自力で
☆なりたい自分
☆目指す自分
に近づくように努力して、じぶんを誇らしく思えるようになりたいのです。
2013-11-06
It's your journey.
またまた悪いクセが出ているんじゃないか!?
アートは美しいものであるべき
って、わたし思っちゃってる。わたしの得意な「固定概念」。
自分の描くメヘンディがなかなか上達しなくて、ステキなメヘンディを描く人たちのブログを見ると、みなさんもともと、絵を描くのが好き、ものを作るのが好きっていう方たちばかりで。
アーティスティックな才能がないと美しいメヘンディは描けないのか・・・とがっかりして落ち込みます。
リズム感がないのに、ダンスを踊っているような滑稽ささえ、感じてしまいます。
いかんいかん、自己否定。
個性です。個性。個性が大事なんです!
わたしはわたしの色を出せればいいんです!
比べることはナンセンス。楽しければいいんです!
うんうん、ヨガ的な考え方。
ヨガは比べるものではありません。自分で自分の内側を探っていくものなんです。
アートは美しいものであるべき
って、わたし思っちゃってる。わたしの得意な「固定概念」。
自分の描くメヘンディがなかなか上達しなくて、ステキなメヘンディを描く人たちのブログを見ると、みなさんもともと、絵を描くのが好き、ものを作るのが好きっていう方たちばかりで。
アーティスティックな才能がないと美しいメヘンディは描けないのか・・・とがっかりして落ち込みます。
リズム感がないのに、ダンスを踊っているような滑稽ささえ、感じてしまいます。
いかんいかん、自己否定。
個性です。個性。個性が大事なんです!
わたしはわたしの色を出せればいいんです!
比べることはナンセンス。楽しければいいんです!
うんうん、ヨガ的な考え方。
ヨガは比べるものではありません。自分で自分の内側を探っていくものなんです。
2013-10-21
わたしが欲しいもの
喉から手が出るほど欲しいもの。
才能 talent 神様から与えられた特別なちから
楽しそうにダンスをする人を見て、ああ、こんなふうに身体を動かせたら。
美しいデザインのメヘンディを描く人を見て、ああ、こんなデザインができたら。こんな風に描けたら。
わたしが苦手なポーズをやすやすとやってしまう人を見て、ああ、わたしの関節や身体がこんな風に柔らかかったら。
自分を誇れるひとになりたい。
才能 talent 神様から与えられた特別なちから
楽しそうにダンスをする人を見て、ああ、こんなふうに身体を動かせたら。
美しいデザインのメヘンディを描く人を見て、ああ、こんなデザインができたら。こんな風に描けたら。
わたしが苦手なポーズをやすやすとやってしまう人を見て、ああ、わたしの関節や身体がこんな風に柔らかかったら。
自分を誇れるひとになりたい。
2013-10-15
乳がんとヨガ
「乳がん患者さん向けヨガセラピー 指導者養成講座」を受講してきました。
受講者の中にはわたし同様にBreast Cancer Survivor の人もいました。
みなさん、カミングアウトしなければ見た目にはまったくわからない、若くて、可愛らしくて、明るくて、そして自身の体験をきちんと話してくれる方ばかりでした。
わたし自身もがんになったこと、手術をしたことは普段から隠していないので、すんなりとその場の雰囲気を受け入れていました。そんな和やかな雰囲気の講座でした。
講座では、いろいろな気付きがありました。
ヨガ自体が最終目的ではなくて、ヨガによってもたらされる健やかな生活こそを生徒さんは求めている
というお話にはっとしました。
わたしがヨガを始めたきっかけは、パニック障害を自分の力で少しでも軽減したかったから。
ヨガ=呼吸や瞑想=リラックス=パニックの軽減
という図式を想像して始めたようなものです。(これはまさしく、狙い通りとなりましたが。)
それってまさしく、”ヨガの先にあるもの”を求めてヨガクラスの扉をたたいた・・・ということですね!
乳がん患者さんがヨガクラスを受けたいと思う理由は、運動不足だからスポーツジムでヨガクラスを受けよう、というのと全く違うはずです。
本当に伝えなければいけないメッセージ、これをきちんとわたしが認識していないといけない。
伝える立場として、ヨガ歴が何年とか、指導歴が何年とか、そんなことは関係ないなと。
根本的なメッセージを伝えようとしているか、努力できるか、そしてそれが相手に伝わるかが大切なのだとあらためて認識しました。
安心できること、安心できる場
「自己否定」。私にとってこの言葉は病気とは関係なくずっしりと重いテーマです。
でも病気になったとき、誰もがやることは「犯人探し」なのだそうです。
なぜなんだろう?どうしてなんだろう?このせい?あのせい?
多かれ少なかれ、頭をよぎらないことはないでしょう。
わたしも一瞬、考えました。
乳がん、子宮がんは出産経験のない30-40代女性に多いと言われています。だから、
「これは子供を持つ、ということを放棄した自分への罰なのか?」
と。幸いなことにわたしはそれ以上の犯人探しはしませんでしたが。
もし自分がそうやってどんどん自分を、そしてがんを否定し続けていたら・・・、とても辛く苦しい日々を送っていたと思います。
だから、そんなあてどない犯人探しに陥っている人がいたら、この場では犯人探しはやめましょう、休みましょう、・・・という安心できる場を作りましょうという岡部朋子先生の考え方に深く共感しました。
もちろん「犯人探し」に限らず、普通のヨガクラスでは引け目を感じてしまう人たちにとっても、安心して寛いでもらえる、敷居の低い環境作り。これが大切だということも痛感しました。
自分も体験者であるけれど、こうして学んでみないとわからないこと、気付かないことがたくさんありました。他の体験者の方の話もとても参考になりました。
同じ体験者であっても、病気のステージ、治療方法の違い、主治医の先生の方針や考え方、そして本人の病気や治療、生き方に対する考え方や価値観は千差万別。
でもどれも尊重し、応援していくのがわたしたちヨガを伝える側の仕事だということを認識できた貴重な時間でした。
受講者の中にはわたし同様にBreast Cancer Survivor の人もいました。
みなさん、カミングアウトしなければ見た目にはまったくわからない、若くて、可愛らしくて、明るくて、そして自身の体験をきちんと話してくれる方ばかりでした。
わたし自身もがんになったこと、手術をしたことは普段から隠していないので、すんなりとその場の雰囲気を受け入れていました。そんな和やかな雰囲気の講座でした。
講座では、いろいろな気付きがありました。
ヨガ自体が最終目的ではなくて、ヨガによってもたらされる健やかな生活こそを生徒さんは求めている
というお話にはっとしました。
わたしがヨガを始めたきっかけは、パニック障害を自分の力で少しでも軽減したかったから。
ヨガ=呼吸や瞑想=リラックス=パニックの軽減
という図式を想像して始めたようなものです。(これはまさしく、狙い通りとなりましたが。)
それってまさしく、”ヨガの先にあるもの”を求めてヨガクラスの扉をたたいた・・・ということですね!
乳がん患者さんがヨガクラスを受けたいと思う理由は、運動不足だからスポーツジムでヨガクラスを受けよう、というのと全く違うはずです。
本当に伝えなければいけないメッセージ、これをきちんとわたしが認識していないといけない。
伝える立場として、ヨガ歴が何年とか、指導歴が何年とか、そんなことは関係ないなと。
根本的なメッセージを伝えようとしているか、努力できるか、そしてそれが相手に伝わるかが大切なのだとあらためて認識しました。
安心できること、安心できる場
「自己否定」。私にとってこの言葉は病気とは関係なくずっしりと重いテーマです。
でも病気になったとき、誰もがやることは「犯人探し」なのだそうです。
なぜなんだろう?どうしてなんだろう?このせい?あのせい?
多かれ少なかれ、頭をよぎらないことはないでしょう。
わたしも一瞬、考えました。
乳がん、子宮がんは出産経験のない30-40代女性に多いと言われています。だから、
「これは子供を持つ、ということを放棄した自分への罰なのか?」
と。幸いなことにわたしはそれ以上の犯人探しはしませんでしたが。
もし自分がそうやってどんどん自分を、そしてがんを否定し続けていたら・・・、とても辛く苦しい日々を送っていたと思います。
だから、そんなあてどない犯人探しに陥っている人がいたら、この場では犯人探しはやめましょう、休みましょう、・・・という安心できる場を作りましょうという岡部朋子先生の考え方に深く共感しました。
もちろん「犯人探し」に限らず、普通のヨガクラスでは引け目を感じてしまう人たちにとっても、安心して寛いでもらえる、敷居の低い環境作り。これが大切だということも痛感しました。
自分も体験者であるけれど、こうして学んでみないとわからないこと、気付かないことがたくさんありました。他の体験者の方の話もとても参考になりました。
同じ体験者であっても、病気のステージ、治療方法の違い、主治医の先生の方針や考え方、そして本人の病気や治療、生き方に対する考え方や価値観は千差万別。
でもどれも尊重し、応援していくのがわたしたちヨガを伝える側の仕事だということを認識できた貴重な時間でした。
準備が整ったら、ヨガクラスを始めていこうと思います。
2013-10-14
求めている場所
約1年ぶりにケン先生のクラスを受けに行きました。
次こそは、セカンドに進んでいたい!そしてケン先生にアジャストをしてもらいたい!と強く心に誓ったものの・・・、継続的に練習をすることはなかなか叶わず、いまやフルプライマリーの練習もろくに出来ていないわたし・・・。ダメダメじゃん!
レッドクラスなんて、本当に久しぶり。チャンティングすら久しぶり(汗)。
そして季節外れの暑さに加えてスタジオ内の熱気で汗だく。
シャバアサナのとき、初めてケン先生のWS受けたときの衝撃を思い出しました。
エーカム、って先生がカウントした途端に部屋中に響き渡るウジャイの音。
皮膚という皮膚の穴がざわざわっと粟立ったこと。
その空気を吸って、頭の中までじーんとしたこと。
シャバアサナで感じるなんともいえない解放感と満足感。
これこれ、この感覚を求めて、わたしは練習してるんだな。
平穏でゆったりとしたココロ。でもエナジーに満ち溢れてる。
アシュタンガの練習してたら、少々のことは乗り越えられるよな、っていうか、大抵のことはなーんだこの程度のことかって思えてしまいます。
だって、先は長いし、できないこといっぱいあるし、でもほんの少しの気付きで不可能が可能になったり、粛々と淡々と続けることでできるようになったこともいっぱいあるし。
やっぱり、アシュタンガをやっていてよかったと思うし、これからも続けます。
明日は「乳がん患者さん向けヨガセラピー 指導者養成講座」を受講します。
自分のためにもしっかり学んで、ほかの誰かの役に立てたらいいなと思います。
ヨガのもたらす効果は自分が一番よくわかってる。それをこういう形で少しでも伝えられたら。
わたしのように救われる人がきっといるはず。
次こそは、セカンドに進んでいたい!そしてケン先生にアジャストをしてもらいたい!と強く心に誓ったものの・・・、継続的に練習をすることはなかなか叶わず、いまやフルプライマリーの練習もろくに出来ていないわたし・・・。ダメダメじゃん!
レッドクラスなんて、本当に久しぶり。チャンティングすら久しぶり(汗)。
そして季節外れの暑さに加えてスタジオ内の熱気で汗だく。
シャバアサナのとき、初めてケン先生のWS受けたときの衝撃を思い出しました。
エーカム、って先生がカウントした途端に部屋中に響き渡るウジャイの音。
皮膚という皮膚の穴がざわざわっと粟立ったこと。
その空気を吸って、頭の中までじーんとしたこと。
シャバアサナで感じるなんともいえない解放感と満足感。
これこれ、この感覚を求めて、わたしは練習してるんだな。
平穏でゆったりとしたココロ。でもエナジーに満ち溢れてる。
アシュタンガの練習してたら、少々のことは乗り越えられるよな、っていうか、大抵のことはなーんだこの程度のことかって思えてしまいます。
だって、先は長いし、できないこといっぱいあるし、でもほんの少しの気付きで不可能が可能になったり、粛々と淡々と続けることでできるようになったこともいっぱいあるし。
やっぱり、アシュタンガをやっていてよかったと思うし、これからも続けます。
明日は「乳がん患者さん向けヨガセラピー 指導者養成講座」を受講します。
自分のためにもしっかり学んで、ほかの誰かの役に立てたらいいなと思います。
ヨガのもたらす効果は自分が一番よくわかってる。それをこういう形で少しでも伝えられたら。
わたしのように救われる人がきっといるはず。
2013-10-11
こうしてわたしは二重まぶたになった
「Gunosy(グノシー)」というサービスを利用しています。
独自のアルゴリズムにより、利用者の興味のある記事を知らせてくれるというものです。
毎日決まった時間にその情報メールが届くように設定しているので、仕事の空き時間にチェックするのですが、ついついあちこち余計な記事まで読んでしまいます。
つい先日、「目は心の窓」というタイトルに惹かれて美容関係の記事を読みました。
心が開くと目が大きくなるととか、目ヂカラがでるとか、そんな内容だったと思います。
そんなことで目が大きくなるなら、苦労はしないよ!!とムッとする人もいるかもしれませんが、いやいや、意外とそんなこともあるのかも。
・・・というのも、わたし自身、ある日気付いたら二重になっていたからです。
しかも何の努力もしないで!
子供の頃は確かに一重でした。妹は赤ちゃんの時からくっきり二重で、一重で小さい目の母は「Tちゃん(妹)のおめめはキレイなくっきり二重ねー」と自慢げに、口癖のように言っていた気がします。
わたしはというと「一重だけど切れ長の目」という表現でした。一重のわりには「目、開いてんの?」と揶揄されるような細すぎたり、小さすぎる目でないことは確かだったと思います。
思いっきり目を見開いて力を抜くと、一瞬だけ二重になるという技を発見して、たまにそんなことをやっていました(笑)。
「ほらほら、ふたえー」って人に見せると返ってくる答えは「なんかへーん」。・・・がっかりです(苦笑)。今なら想像できます。たぶん、アイプチでむりやり二重にしたような不自然さがあったのでしょう。アイプチ使ってないけど。自力だけど(笑)。
作家の林真理子さんが駆け出しの頃(・・・だと思う)、ティーン雑誌に連載を書いていて、二重まぶたについて書いていたコラムを読んだことがあります。
林真理子さんは一重の目がイヤで、「考える人」みたいなポーズでいつもまぶたを指で押していたんだそうです。そうしたら、いつしか二重になった!で、他人から「(ブスでも)大きなおめめの林さん」と言われるようになった・・・という内容だったと思います。
そのコラムを読んでいるとき、うらやましいと思ったわけではありませんが、なんだか共感する部分がありました。
時を経て、30歳を過ぎてからのこと。
仕事関係の人とエレベーターの中で話をしていてまぶたの話になり
「わたし、一重まぶただからさー」
と言ったら、相手はけげんな顔をして
「・・・え?どうみても二重だけど?」
「やだー、よく見てよ、一重、一重」
「・・・えーーーと、やっぱり二重だけど?」
「うそー???」
エレベーター内の鏡で自分の顔を見てみたら、あーら、不思議。
そこにはくっきり二重のわたしがいました。
いったい、いつから???
毎日鏡見てるのに、思い込みってコワイ。と思ったのもその時です。
その頃、わたしに何か心境の変化があったかどうかはよく覚えていませんが、結婚後の話なので、結婚前と比較すれば、少しずつ自信が持てることが増えてきていたのかもしれません。
その後のわたしのまぶたが一重になることはなく(大泣きした翌日は除いて)、むしろますます「大きい目」の印象が強まっている気がします。
「昔一重まぶただったんだよねー」と言っても皆信じられないみたいです。
独自のアルゴリズムにより、利用者の興味のある記事を知らせてくれるというものです。
毎日決まった時間にその情報メールが届くように設定しているので、仕事の空き時間にチェックするのですが、ついついあちこち余計な記事まで読んでしまいます。
つい先日、「目は心の窓」というタイトルに惹かれて美容関係の記事を読みました。
心が開くと目が大きくなるととか、目ヂカラがでるとか、そんな内容だったと思います。
そんなことで目が大きくなるなら、苦労はしないよ!!とムッとする人もいるかもしれませんが、いやいや、意外とそんなこともあるのかも。
・・・というのも、わたし自身、ある日気付いたら二重になっていたからです。
しかも何の努力もしないで!
子供の頃は確かに一重でした。妹は赤ちゃんの時からくっきり二重で、一重で小さい目の母は「Tちゃん(妹)のおめめはキレイなくっきり二重ねー」と自慢げに、口癖のように言っていた気がします。
わたしはというと「一重だけど切れ長の目」という表現でした。一重のわりには「目、開いてんの?」と揶揄されるような細すぎたり、小さすぎる目でないことは確かだったと思います。
思いっきり目を見開いて力を抜くと、一瞬だけ二重になるという技を発見して、たまにそんなことをやっていました(笑)。
「ほらほら、ふたえー」って人に見せると返ってくる答えは「なんかへーん」。・・・がっかりです(苦笑)。今なら想像できます。たぶん、アイプチでむりやり二重にしたような不自然さがあったのでしょう。アイプチ使ってないけど。自力だけど(笑)。
作家の林真理子さんが駆け出しの頃(・・・だと思う)、ティーン雑誌に連載を書いていて、二重まぶたについて書いていたコラムを読んだことがあります。
林真理子さんは一重の目がイヤで、「考える人」みたいなポーズでいつもまぶたを指で押していたんだそうです。そうしたら、いつしか二重になった!で、他人から「(ブスでも)大きなおめめの林さん」と言われるようになった・・・という内容だったと思います。
そのコラムを読んでいるとき、うらやましいと思ったわけではありませんが、なんだか共感する部分がありました。
時を経て、30歳を過ぎてからのこと。
仕事関係の人とエレベーターの中で話をしていてまぶたの話になり
「わたし、一重まぶただからさー」
と言ったら、相手はけげんな顔をして
「・・・え?どうみても二重だけど?」
「やだー、よく見てよ、一重、一重」
「・・・えーーーと、やっぱり二重だけど?」
「うそー???」
エレベーター内の鏡で自分の顔を見てみたら、あーら、不思議。
そこにはくっきり二重のわたしがいました。
いったい、いつから???
毎日鏡見てるのに、思い込みってコワイ。と思ったのもその時です。
その頃、わたしに何か心境の変化があったかどうかはよく覚えていませんが、結婚後の話なので、結婚前と比較すれば、少しずつ自信が持てることが増えてきていたのかもしれません。
その後のわたしのまぶたが一重になることはなく(大泣きした翌日は除いて)、むしろますます「大きい目」の印象が強まっている気がします。
「昔一重まぶただったんだよねー」と言っても皆信じられないみたいです。
わたしに似ているらしい 愛犬うてな
2013-10-10
「~であるべき」からの脱却
常々感じているのは、
そろそろ「~であるべき」の呪縛を解いていきたい
ということ。
わたしは
いつも自分に満足できなくて、
だから自分に自信がなくて、
だからといって自分を鼓舞するわけでもなく、
クサクサとしている
タイプの人でした。
どうして自分に自信が持てないのか?何年も何年も考え続けてきました。
「自信を持っていいじゃない」という自分と、「やっぱりこんなわたしじゃダメよ」という自分が、心の中でいつも綱引きをしているのです。
あるヨガのクラスで、自分の長所と短所を書き出してその場にいる人たちとシェアする・・・ということをしました。
わたしとしては珍しく、自分の長所をたくさん書き出すことができて「へえ、わたしも進歩したじゃん」
なんて思いつつ、次に短所を書き始めたのですが、時間切れで短所として挙げられたことはほんのひとつかふたつでした。
でも挙げた数は少なくても、自分にとって重くのしかかるのは短所の方でした。
そしてその内容を話す番がきた時、重くのしかかる「自信が持てないわたし」の本質が、ようやくわかったのです。それは頭の中で水風船がパチンとはじめたかんじ。
わたしは
「一点の汚点もないわたし」
を目指しているのだということを。
だから、自分を許せない。
だから、自信を持てない。
誰もわたしにそんなことを期待していないのに、勝手に自分をがんじがらめにして、勝手な枠をどんどん増やしてきたのです。
今頃になってようやくわかったのかと半ば自分に呆れますが、気付いたその時がベストタイミングなのでしょう。
少なくとも、わたしは自分でそれに気付いた、それでいいんじゃないかと。
あとはもっと自分の可能性を広げていくために、少しずつその呪縛を解いていきたいと思います。
そろそろ「~であるべき」の呪縛を解いていきたい
ということ。
わたしは
いつも自分に満足できなくて、
だから自分に自信がなくて、
だからといって自分を鼓舞するわけでもなく、
クサクサとしている
タイプの人でした。
どうして自分に自信が持てないのか?何年も何年も考え続けてきました。
「自信を持っていいじゃない」という自分と、「やっぱりこんなわたしじゃダメよ」という自分が、心の中でいつも綱引きをしているのです。
あるヨガのクラスで、自分の長所と短所を書き出してその場にいる人たちとシェアする・・・ということをしました。
わたしとしては珍しく、自分の長所をたくさん書き出すことができて「へえ、わたしも進歩したじゃん」
なんて思いつつ、次に短所を書き始めたのですが、時間切れで短所として挙げられたことはほんのひとつかふたつでした。
でも挙げた数は少なくても、自分にとって重くのしかかるのは短所の方でした。
そしてその内容を話す番がきた時、重くのしかかる「自信が持てないわたし」の本質が、ようやくわかったのです。それは頭の中で水風船がパチンとはじめたかんじ。
わたしは
「一点の汚点もないわたし」
を目指しているのだということを。
だから、自分を許せない。
だから、自信を持てない。
誰もわたしにそんなことを期待していないのに、勝手に自分をがんじがらめにして、勝手な枠をどんどん増やしてきたのです。
今頃になってようやくわかったのかと半ば自分に呆れますが、気付いたその時がベストタイミングなのでしょう。
少なくとも、わたしは自分でそれに気付いた、それでいいんじゃないかと。
あとはもっと自分の可能性を広げていくために、少しずつその呪縛を解いていきたいと思います。
わたしの進化過程を綴るツール
毎日いろんなことに気付いたり、感じたり、思ったりしているのに、あっという間に次の出来事や感情に押し流されて忘れてしまうのがモッタイナイと常々、思っていました。
せっかくなのでどこかに留めておきたくて、またブログを始めました。
たとえ以前に体験したことと同じような事象が起こっていたとしても、私自身が以前とは違えば、受け取り方、感じ方がまったく違います。
今のわたしは過去のわたしよりずっと、いろいろな出来事への対処の仕方がうまくなりました。
・・・というより、
自分との付き合い方が上手くなった
ということなんだと思います。
このブログはそんな現在のわたしが、さらに進化していく(であろう)過程を綴っていくツールにしようと思います。
とりあえず、デザインに凝りだすといつまでたってもブログの中身を書いていけないので、ド定番シンプルでスタートしておきます・・・。
せっかくなのでどこかに留めておきたくて、またブログを始めました。
たとえ以前に体験したことと同じような事象が起こっていたとしても、私自身が以前とは違えば、受け取り方、感じ方がまったく違います。
今のわたしは過去のわたしよりずっと、いろいろな出来事への対処の仕方がうまくなりました。
・・・というより、
自分との付き合い方が上手くなった
ということなんだと思います。
このブログはそんな現在のわたしが、さらに進化していく(であろう)過程を綴っていくツールにしようと思います。
とりあえず、デザインに凝りだすといつまでたってもブログの中身を書いていけないので、ド定番シンプルでスタートしておきます・・・。
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