2018-10-20

100回

毎朝の神社参拝を始めて、100回の参拝を終えた。
物理的に参拝できなかった日と、どうしても行く気になれなかった日が5−6日あっただけで、ほぼ毎日手を合わせてきた。


なぜ、わたしが毎日氏神さまへ向かうようになったか?


それは、ある人からそうするよう勧められたから。


これまでの人生の中で起こった人間関係の躓き。
いじめだったり、
クラスメイト誰とも馴染めなかったり、
とても仲良くしていた友人が手のひらを返したように態度を変えてきたり。



それは単に(心を)傷つけられた、というどころではなく、
”わたし”という人格をとことん否定されたり、貶められた。
消えてなくなりたいと思うほどに。



わたしの何がいけないんだろう?
わたしの発言が他人を嫌な気持ちにさせているのか?
自覚なく他人を嫌な気持ちにさせているなんて、自分が許せない
わたしのことを認めてくれるひとはいるんだろうか?


ことあるごとにそう感じて、


ダメなわたし
サイテーなわたし
わたしには価値がない


、と自分で自分の心に鞭をふるってきたし、自分で自分を貶めるような行為もしてきた。
後でそれは、自己肯定感が低いひとがやりがちなことだと知って、やっぱりわたしはそういうひとなんだと思った。


わたしなんてという謙虚も度を超えればただの卑屈だ。
自己肯定感などほとんどないまま、生きてきたと思う。



漠然と 人づきあいでうまくいかないことが多い



と、その人に話したら


当たり前や。ほかのひとと違って”持ってるひと”やからな。妬まれるねん。
突き抜けたらええねん。
”持ってないひと”に合わせたらアカン。
持ってないひとにまみれたら、”運”を取られるねん。
”持ってるひと”っていう自覚がないとな、フルボッコにやられるねん。
突き抜けたら、妬まれたりする対象にならへんねん。


、と即答された。
そしたら、本当に目から鱗が落ちたかのように


そうだったんだ!


と腑に落ちた。まさに腑に落ちた。
初めて”水”を認識したヘレン・ケラーみたいに。



そして彼女からもらったアドバイスのひとつが、


氏神さまへ毎日行く


ということだった。

以前、山伏の知人も言ってた。

氏神さまというのは、地元の消防団みたいなもの。
家で火事が起きているのに、遠く離れた消防署に「助けてください」ってお願いしても無理な話で、
遠くの地にいる神様に「いま助けてください!」ってお願いしても
神様だって「助けに行ってあげたいけど遠くて行けないよ〜」ってなる。
すぐに助けに来てもらえる地元の消防団=氏神さまを大事にしましょう。


この説明もなるほど!と膝を打ちたくなるくらい納得ものだった。
だから氏神さまへ行くことに全く抵抗がなかった。
そんなわけで明日も氏神さまへ行く。