2013-10-21

わたしが欲しいもの

喉から手が出るほど欲しいもの。



才能 talent 神様から与えられた特別なちから



楽しそうにダンスをする人を見て、ああ、こんなふうに身体を動かせたら。

美しいデザインのメヘンディを描く人を見て、ああ、こんなデザインができたら。こんな風に描けたら。

わたしが苦手なポーズをやすやすとやってしまう人を見て、ああ、わたしの関節や身体がこんな風に柔らかかったら。






自分を誇れるひとになりたい。



2013-10-15

乳がんとヨガ

「乳がん患者さん向けヨガセラピー 指導者養成講座」を受講してきました。
受講者の中にはわたし同様にBreast Cancer Survivor の人もいました。
みなさん、カミングアウトしなければ見た目にはまったくわからない、若くて、可愛らしくて、明るくて、そして自身の体験をきちんと話してくれる方ばかりでした。
わたし自身もがんになったこと、手術をしたことは普段から隠していないので、すんなりとその場の雰囲気を受け入れていました。そんな和やかな雰囲気の講座でした。

講座では、いろいろな気付きがありました。



ヨガ自体が最終目的ではなくて、ヨガによってもたらされる健やかな生活こそを生徒さんは求めている

というお話にはっとしました。

わたしがヨガを始めたきっかけは、パニック障害を自分の力で少しでも軽減したかったから。

ヨガ=呼吸や瞑想=リラックス=パニックの軽減

という図式を想像して始めたようなものです。(これはまさしく、狙い通りとなりましたが。)
それってまさしく、”ヨガの先にあるもの”を求めてヨガクラスの扉をたたいた・・・ということですね!
乳がん患者さんがヨガクラスを受けたいと思う理由は、運動不足だからスポーツジムでヨガクラスを受けよう、というのと全く違うはずです。
本当に伝えなければいけないメッセージ、これをきちんとわたしが認識していないといけない。
伝える立場として、ヨガ歴が何年とか、指導歴が何年とか、そんなことは関係ないなと。
根本的なメッセージを伝えようとしているか、努力できるか、そしてそれが相手に伝わるかが大切なのだとあらためて認識しました。



安心できること、安心できる場

「自己否定」。私にとってこの言葉は病気とは関係なくずっしりと重いテーマです。
でも病気になったとき、誰もがやることは「犯人探し」なのだそうです。

なぜなんだろう?どうしてなんだろう?このせい?あのせい?

多かれ少なかれ、頭をよぎらないことはないでしょう。
わたしも一瞬、考えました。
乳がん、子宮がんは出産経験のない30-40代女性に多いと言われています。だから、

「これは子供を持つ、ということを放棄した自分への罰なのか?」

と。幸いなことにわたしはそれ以上の犯人探しはしませんでしたが。
もし自分がそうやってどんどん自分を、そしてがんを否定し続けていたら・・・、とても辛く苦しい日々を送っていたと思います。
だから、そんなあてどない犯人探しに陥っている人がいたら、この場では犯人探しはやめましょう、休みましょう、・・・という安心できる場を作りましょうという岡部朋子先生の考え方に深く共感しました。

もちろん「犯人探し」に限らず、普通のヨガクラスでは引け目を感じてしまう人たちにとっても、安心して寛いでもらえる、敷居の低い環境作り。これが大切だということも痛感しました。



自分も体験者であるけれど、こうして学んでみないとわからないこと、気付かないことがたくさんありました。他の体験者の方の話もとても参考になりました。
同じ体験者であっても、病気のステージ、治療方法の違い、主治医の先生の方針や考え方、そして本人の病気や治療、生き方に対する考え方や価値観は千差万別。
でもどれも尊重し、応援していくのがわたしたちヨガを伝える側の仕事だということを認識できた貴重な時間でした。

準備が整ったら、ヨガクラスを始めていこうと思います。



2013-10-14

求めている場所

約1年ぶりにケン先生のクラスを受けに行きました。
次こそは、セカンドに進んでいたい!そしてケン先生にアジャストをしてもらいたい!と強く心に誓ったものの・・・、継続的に練習をすることはなかなか叶わず、いまやフルプライマリーの練習もろくに出来ていないわたし・・・。ダメダメじゃん!
レッドクラスなんて、本当に久しぶり。チャンティングすら久しぶり(汗)。
そして季節外れの暑さに加えてスタジオ内の熱気で汗だく。


シャバアサナのとき、初めてケン先生のWS受けたときの衝撃を思い出しました。

エーカム、って先生がカウントした途端に部屋中に響き渡るウジャイの音。
皮膚という皮膚の穴がざわざわっと粟立ったこと。
その空気を吸って、頭の中までじーんとしたこと。
シャバアサナで感じるなんともいえない解放感と満足感。


これこれ、この感覚を求めて、わたしは練習してるんだな。
平穏でゆったりとしたココロ。でもエナジーに満ち溢れてる。


アシュタンガの練習してたら、少々のことは乗り越えられるよな、っていうか、大抵のことはなーんだこの程度のことかって思えてしまいます。
だって、先は長いし、できないこといっぱいあるし、でもほんの少しの気付きで不可能が可能になったり、粛々と淡々と続けることでできるようになったこともいっぱいあるし。



やっぱり、アシュタンガをやっていてよかったと思うし、これからも続けます。




明日は「乳がん患者さん向けヨガセラピー 指導者養成講座」を受講します。
自分のためにもしっかり学んで、ほかの誰かの役に立てたらいいなと思います。
ヨガのもたらす効果は自分が一番よくわかってる。それをこういう形で少しでも伝えられたら。
わたしのように救われる人がきっといるはず。



2013-10-11

こうしてわたしは二重まぶたになった

Gunosy(グノシー)」というサービスを利用しています。
独自のアルゴリズムにより、利用者の興味のある記事を知らせてくれるというものです。
毎日決まった時間にその情報メールが届くように設定しているので、仕事の空き時間にチェックするのですが、ついついあちこち余計な記事まで読んでしまいます。


つい先日、「目は心の窓」というタイトルに惹かれて美容関係の記事を読みました。
心が開くと目が大きくなるととか、目ヂカラがでるとか、そんな内容だったと思います。
そんなことで目が大きくなるなら、苦労はしないよ!!とムッとする人もいるかもしれませんが、いやいや、意外とそんなこともあるのかも。

・・・というのも、わたし自身、ある日気付いたら二重になっていたからです。
しかも何の努力もしないで!

子供の頃は確かに一重でした。妹は赤ちゃんの時からくっきり二重で、一重で小さい目の母は「Tちゃん(妹)のおめめはキレイなくっきり二重ねー」と自慢げに、口癖のように言っていた気がします。
わたしはというと「一重だけど切れ長の目」という表現でした。一重のわりには「目、開いてんの?」と揶揄されるような細すぎたり、小さすぎる目でないことは確かだったと思います。
思いっきり目を見開いて力を抜くと、一瞬だけ二重になるという技を発見して、たまにそんなことをやっていました(笑)。
「ほらほら、ふたえー」って人に見せると返ってくる答えは「なんかへーん」。・・・がっかりです(苦笑)。今なら想像できます。たぶん、アイプチでむりやり二重にしたような不自然さがあったのでしょう。アイプチ使ってないけど。自力だけど(笑)。

作家の林真理子さんが駆け出しの頃(・・・だと思う)、ティーン雑誌に連載を書いていて、二重まぶたについて書いていたコラムを読んだことがあります。
林真理子さんは一重の目がイヤで、「考える人」みたいなポーズでいつもまぶたを指で押していたんだそうです。そうしたら、いつしか二重になった!で、他人から「(ブスでも)大きなおめめの林さん」と言われるようになった・・・という内容だったと思います。
そのコラムを読んでいるとき、うらやましいと思ったわけではありませんが、なんだか共感する部分がありました。


時を経て、30歳を過ぎてからのこと。
仕事関係の人とエレベーターの中で話をしていてまぶたの話になり

「わたし、一重まぶただからさー」

と言ったら、相手はけげんな顔をして

「・・・え?どうみても二重だけど?」

「やだー、よく見てよ、一重、一重」

「・・・えーーーと、やっぱり二重だけど?」

「うそー???」

エレベーター内の鏡で自分の顔を見てみたら、あーら、不思議。
そこにはくっきり二重のわたしがいました。
いったい、いつから???
毎日鏡見てるのに、思い込みってコワイ。と思ったのもその時です。
その頃、わたしに何か心境の変化があったかどうかはよく覚えていませんが、結婚後の話なので、結婚前と比較すれば、少しずつ自信が持てることが増えてきていたのかもしれません。



その後のわたしのまぶたが一重になることはなく(大泣きした翌日は除いて)、むしろますます「大きい目」の印象が強まっている気がします。
「昔一重まぶただったんだよねー」と言っても皆信じられないみたいです。

わたしに似ているらしい 愛犬うてな



2013-10-10

「~であるべき」からの脱却

常々感じているのは、

そろそろ「~であるべき」の呪縛を解いていきたい

ということ。

わたしは

いつも自分に満足できなくて、
だから自分に自信がなくて、
だからといって自分を鼓舞するわけでもなく、
クサクサとしている

タイプの人でした。

どうして自分に自信が持てないのか?何年も何年も考え続けてきました。
「自信を持っていいじゃない」という自分と、「やっぱりこんなわたしじゃダメよ」という自分が、心の中でいつも綱引きをしているのです。

あるヨガのクラスで、自分の長所と短所を書き出してその場にいる人たちとシェアする・・・ということをしました。
わたしとしては珍しく、自分の長所をたくさん書き出すことができて「へえ、わたしも進歩したじゃん」
なんて思いつつ、次に短所を書き始めたのですが、時間切れで短所として挙げられたことはほんのひとつかふたつでした。
でも挙げた数は少なくても、自分にとって重くのしかかるのは短所の方でした。
そしてその内容を話す番がきた時、重くのしかかる「自信が持てないわたし」の本質が、ようやくわかったのです。それは頭の中で水風船がパチンとはじめたかんじ。


わたしは


「一点の汚点もないわたし」


を目指しているのだということを。
だから、自分を許せない。
だから、自信を持てない。



誰もわたしにそんなことを期待していないのに、勝手に自分をがんじがらめにして、勝手な枠をどんどん増やしてきたのです。
今頃になってようやくわかったのかと半ば自分に呆れますが、気付いたその時がベストタイミングなのでしょう。
少なくとも、わたしは自分でそれに気付いた、それでいいんじゃないかと。
あとはもっと自分の可能性を広げていくために、少しずつその呪縛を解いていきたいと思います。



わたしの進化過程を綴るツール

毎日いろんなことに気付いたり、感じたり、思ったりしているのに、あっという間に次の出来事や感情に押し流されて忘れてしまうのがモッタイナイと常々、思っていました。
せっかくなのでどこかに留めておきたくて、またブログを始めました。

たとえ以前に体験したことと同じような事象が起こっていたとしても、私自身が以前とは違えば、受け取り方、感じ方がまったく違います。
今のわたしは過去のわたしよりずっと、いろいろな出来事への対処の仕方がうまくなりました。
・・・というより、


自分との付き合い方が上手くなった


ということなんだと思います。
このブログはそんな現在のわたしが、さらに進化していく(であろう)過程を綴っていくツールにしようと思います。


とりあえず、デザインに凝りだすといつまでたってもブログの中身を書いていけないので、ド定番シンプルでスタートしておきます・・・。