2016-10-19

作為を超えるということ

録画しておいた「プロフェッショナル 仕事の流儀」デザイナー皆川明さんの回を見た。
昨年見に行った「ミナカケル」展を思い出しながら視聴した。

印象的だったのは、

周りを喜ばせたいと思いすぎると作為が勝ちすぎる

という言葉。

「作為的」は、度が過ぎると食指が動かない。
わたしが嫌悪感を感じる「作為」のひとつが「お笑い」。
お笑いって、かなり苦手。
作りこみすぎて、

さあ、さあ!どうだ!?面白いだろう?

ばかげてるだろう?笑えよ!

という作為に満ちている空気がイヤ。
TVをたまたま点けたときに、思わずくすっと笑うくらいが、わたしにはちょうどいい。
まあ、エンターテイメントだからね、作為がなきゃ意味がないのかもしれないけど。

映画やドラマで、最初から涙を誘うつもりの作品もキライ。
ちゃんとしたテーマがあるんだろうけど、泣かせよう、泣かせようとする作為が丸見えなのがイヤだ。なんだかそれを煽るように、CMで「こんなに感動した映画はないです」なんていう感想を流してるのも興ざめだし。

映画が始まった途端、思いもよらず涙が溢れてしまって、こんなシーンで泣いてるのはわたしだけじゃないかと鼻も啜れなかったのは「マイケル・ジャクソン THIS IS IT」だった。
それは、マイケルのステージのバックダンサーに選ばれた人たちの喜びに満ちたインタビューのシーンで、まさかそこで胸が熱くなるとは全く想定していなかったので焦った。
人の感動って、そういう嘘や飾りのない、真摯な思いや姿と向き合うところで生まれるものじゃないかなと思う。


洋服に限らず、消費者としては、
「ああ、こんなかゆいところにまで手が届いているなんて!」
という商品に出会えたときは感動するから、作為というか、マーケティングがとても大事な場合もあるし、逆に、
「なんでこういうモノを作ってくれないのかしら!」とか
「わたしの欲しいモノがない!」
という不満もあるし、またそんな不満から新しく生まれるモノやサービスがある。
だから作為をまるっきり悪者扱いするつもりはない。


ファッションの場合はとくに、人によって興味のあるなしとか好みの幅が広すぎる。人のカラダに纏うものなら、人のカラダだって千差万別だ。
だけどそのどこにもフォーカスせず、淡々と自分の喜びに従って、独自の世界観を醸し出す。
そこには消費者への媚びはなく、かといって「どうだ!オレサマの世界観は!」という傲りもない。
皆川さんのテキスタイルの前では、ただ、ひたひたとものづくりへの熱意を感じるだけだ。




ところで、行き詰った皆川さんが沖縄在住の陶芸家を訪ねたとき、こんなことを言っている。

思う方向に向かいたいと思いながら、 
思っているうちはできそうもないジレンマがある

なんかそんな感覚、わたしも知ってるような気がするなあ~
と思いながら聞いていた。
わたしの現在のメインワークはクリエイティブワークではないし、クリエイティブは趣味の範疇だから、皆川さんの感覚と共感するようなことあったかしら~?と思っていたけど、ふと気付いた。



ほとんど毎朝感じてるわ、練習の中で!




そうか!
だから淡々とひたむきに向き合うしかないんだ。
そして、つまり、作為はエゴね。


結局、突き詰めていくと、追い求める真実はひとつなのかな~